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2016.08.31

ベートーヴェンのミサ Op.86(3)特徴的な音型、十字架音型?

 ベートーヴェンのハ長調ミサは音型やハーモニーで言葉の内容を支えている場所がいくつかあります。
<前項目の続きです>

クレド

キリストの受難と復活、そして来世の命を信じるクレド。
この部分ではベートーヴェンはことさら音型や音程にこだわり、キリスト復活のドラマを描き出そうとしているように思えます。
 通例では大きな音で最初からCredo in unum、、、と始まりますが、このミサ曲ではCredo(信ずる)と言う言葉のみが、時間の単位が四回かけて圧縮され、pからクレッシェンド。この言葉自体を強調します。

 
visibilium et invisibilium(見える物と見えなき物)も通例では一対で一挙に歌われるのですが、ベートーヴェンはinvisibilium(見えなき物)をpの単純な音型で強調しています。

 
genitum non factum(造られたのではなく生まれた)
のnon factum(造られたのではなく) の部分はオーケストラの支えを外れ、合唱のユニゾンで強調されてまるで字余りの様に感じるのです。
 
このように、ベートーヴェンが対照と描き出したかった言葉や強調をしたかった言葉は明確で、ベートーヴェンの宗教観を表しているとも思われます。

伝統的な手法の音程

一方、ベートーヴェンは伝統的に描かれる音程関係も遵守している場所があります。
descendit de coelis(天から下られた)という部分では大胆な下降音型が繰り返し使われています。

またキリストが三日目に復活するシーンでは上行音型が使われています。これも常習的な手法です。

十字架音型で描かれるSanctus

SanctusではCis-H-D-Cisといういわゆるレトリック的に十字架音型とされているもの使われています。
つまりCis音のラインを半音下のHと半音上のDで挟んでいるというわけです。
十字架音型にこだわって何かを見いだすのは日本だけ?というウワサもありますが、私自身はベートーヴェンの計略と信じています。

Sanctusでもう一つ面白いのは、「天と地に満ちている」pleni sunt ceili et terraの部分でソプラノのPの高音とfのバスで天と地を描き分けている部分です。あまりにも「分かりやすい」手法ではありますが、今まで誰も行ってこなかったユニークな手法です。

 
さまざまなユニークな手法をベートーヴェンは自信を持って創造したに違いありません。
 
 
 9月4日15:00からカトリック渋谷教会でこの傑作を演奏します。
皆様の御来場お待ちしています。
詳しくはFacebookページをご覧下さい

2016.08.31(写真はアイゼンシュタットのエステルハージ宮)

ベートーヴェンのミサ Op.86(2)特徴的な和声

 ベートーヴェンのハ長調ミサは音型やハーモニーで言葉の内容を支えている場所がいくつかあります。
 ハイドンやモーツァルトと言った先輩達が採ってきた方法もあり、ベートーヴェンの独自の手法もあります。

1.キリエ

我々の侵した罪を贖うべくキリストに語りかけるキリエ。
驚くような転調が印象的です。
Kyrie eleisonは原調のハ長調とホ短調を使い、Christe eleisonが初めて出て来る場所で
原調から#が四つ付く、ホ長調で進みます。なんと大胆な転調。

最後の最後には二回の減七の和音も含み、我々の心の罪に語りかけるようです。

2.グローリア

神の栄光を崇め奉る言葉が列挙される
Laudamus te, Benedicimus te,  Adramus te では 大抵の作曲家は単純にこの言葉を同義の言葉としてフォルテで、同じ様な曲調で並べ立てているだけなのですが、ベートーヴェンはまずコーラスをアカペラにしてオーケストラの支えを外し、Adoramus te の言葉だけpに音量を落とし、突然フラットが二つつく大転調を行います(ハ長調から変ロ長調)。聴く物を驚かせる仕掛け満載です。

途中 agnus Dei , filius patris の場面ではテノールのソリストになんと5小節もcの音をキープさせます。テノールの肺活量調査がしたかったのでしょうか?

 
ちょっとした部分にベートーヴェンのこだわりと聴く者を驚かせようとする意図が見え隠れします。長くなりそうなので、続きは次回に。
 
 
 9月4日15:00からカトリック渋谷教会でこの傑作を演奏します。
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2016.08.30

ベートーヴェンのミサ Op.86(1)

 ベートーヴェンの作品の中で、ミサ曲は曲数からみれば決して中心に置かれるべき作品群でないと思われているし、特にこのミサ曲Op.86はベートーヴェンの主要作でないとも思われています。しかし、ベートーヴェンは教会音楽に関して素人だったわけではなく、教会オルガニストとして培った若年期の経験、そして先輩の作品を研究し尽くし、同じ手法を使わないというこだわりがこのミサの中に随所にみられます。また実際にミサを執り行うに当たって極めて実用的な側面も備えているのです。一方、大作を作曲するのに多大な時間をかけて練り上げたベートーヴェンにしては、時間がなかったのか、締めきりに間に合わせるために急いで仕上げたような側面も見られます。
 ミサ通常文という1540年から不変のテキストに作曲した先輩作曲家達と同じように、ベートーヴェンは音楽でドラマを創り上げ、時代と独自性を描き出そうとしています。あまりにもユニークな手法に依頼主のエステルハージ候の不評をかったのも当然と言えば当然なのかもしれません。作曲された年は1807年。同じ年に作曲されている交響曲第5番の独自性を誰が初演当時理解出来たのでしょうか?
 キリエはミサ曲の音楽的性格を印象づけるように作られています。ベートーヴェンは過度のフーガの手法を止め、穏やかな司祭の読み上げで始まるような(出だしのバスのアカペラ)極めて優美なキリエになっています。このミサの最後も同じメロディで終わるようになっていて、回文のような手法は第7交響曲第2楽章の最初と最後をも思わせます。
 先輩作曲家が採用して来た華美なフィナーレに対し。穏やかなミサの終わり方はカトリック教会の通例であった、終わりには拍手をしない、という気持ちに自然に繋がるのではないでしょうか?
 キリエの出だしのテンポは"Andante con moto assai vivace quasi Allegretto ma non troppo"というきわめて「はっきりしてちょーだい」というテンポ設定。
 随所にこの様な表記が出て来るのもこのミサ曲の特徴かもしれません。

9月4日15:00からカトリック渋谷教会でこの傑作を演奏します。
皆様の御来場お待ちしています。
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2016.07.23

曽我神社のなぞ

先週、高知の中村交響楽団のコンサートの為に四万十市(中村地区)を訪れていました。
この地区には「曽我神社」と名前のついた神社が数多く点在し、走って行ったり、車にのせていただいたりして、その幾つかを参拝することができました。
高知県の神社巡りをまとめた本、竹内荘市さんの「鎮守の森は今」によると彼が参拝しただけで、16社もの「曽我神社」が高知県にはあるそう。
1193年( 建久3年 )曽我十郎祐成五郎時宗が親の敵工藤左衛門を討ち、その家来の
宇和島地方鬼ヶ城の出身の鬼王が四国に亡くなった曽我十郎祐成の首を盗み取り、弔いの為に故郷に持ち帰ろうとした途中、追っ手から逃れるべく、やむなく内子町に埋めたというお話しがあります。
その鬼王によって曽我大明神信仰が広まったらしいのです。
明治元年の3月28日の大政官布告によって産土神(うぶすながみ)であった曽我大明神は曽我神社に改められたようです。
それにしてもどの場所にいっても鎮守の森と山々を守るように立っている曽我神社。この神社信仰はもとをただせば、古代からの山の神様の信仰なのでしょう。
曽我神社が鎮座する場所は、明日のコンサートの為に久しぶりに見た「となりのトトロ」に描かれている日本の田舎の原風景にそっくり。
山を貴み、信仰の対象としてきた我々の祖先。神社のなかには荒れ果ててしまっているものもあります。鎮守の森はこれからどうなってゆくのでしょうか?


2016.07.07

空をみあげる

空を見上げることを忘れてはいけない。
ちょうど二十年前、タングルウッドの森の満天の星をみながらそんなことを思いました。
タングルウッドの森の木々のあいだから見える星空は落ちてくるかと思うほど。
そんな星空、この二十年であと数えるほどしかみていません。
自然の偉大さ、力強さ、優しさをわすれては音楽なんて出来るわけがない。
さあ、織り姫と彦星は今日は会えるのかなあ?