前奏曲
2012-01-26
絶妙なバランス感覚
前奏曲
オペラの序曲をオペラに先立ち書くという作曲家は珍しいですよね。大抵書き終わった後に最後にオペラに使ったメロディーなどを使って書くのが普通です。作曲家によっては書くのが間に合わなかったから他の序曲を持って来たなんてのが有るくらい。例えばシューベルトの「ロザムンデ」序曲は「魔法の竪琴」の転用だし、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲の「スイス軍の行進」はもともと、「ウィーン軍の行進曲」だったもの、「セヴィリアの理髪師」だって。もともとは「パルミーラのアウレリアーノ」というオペラの序曲。
それにしても、オペラの最後に出て来る闘牛士の行進曲を最初に出しちゃう。その事によって妙に筋の通った一体感と対極の釣り合いが、均整感と緊張感を作り出しています。この行進曲、テンポが速過ぎると重厚感と迫力が出ない、指定されたオリジナルのテンポは結構太く演奏しないと、薄っぺらくなっちゃう、相反する難しさを秘めています(けっこうチャラチャラしただけの薄っぺらい演奏が世の中で多い)。
行進曲に続いた激しい「運命の動機(三拍子の増音程を含むやつです)」。これが繰り返しオペラの中でリフレインされる動機。ワーグナーは色々なキャラに「ライトモチーフ(それぞれの出来事や人物に当てはめる固有のメロディ、動機)」を当てはめて複雑怪奇に組み合わせてるけど、こちらはもっと直球勝負。
考えてみれば印象に残る一つの「(運命の)動機」を色々な場面で形を変えて効果的に使うというアイディアは、モーツァルト、ベートヴェンを始め、チャイコフスキーの四番とか、ベルリオーズの幻想のイデーフィクセとか色々な作曲家が使っている訳で、別にオリジナルではないけれど、この「ジプシー的な増音程」が二人の人生を翻弄する運命の力の力強さと、不安感と、カルメンの人種的な象徴と、オーケストラの中の民主的な音程(???)を呼ぶわけで、、、。この鮮烈なメロディーを適材適所に使うビゼーの手腕、またあの鮮やかな行進曲とも対比が素晴らしい!
いずれにせよ、行進曲の演奏があざやかであれば有るほど「運命の動機」が激しければ激しいほど、オペラ全体が活性化してゆきます。
セヴィリアの街、タバコ工場、竜騎兵
2012-01-26
オペラの色を形成するパレット
セヴィリアの広場
Wikipediaの引用
ヨーロッパの街には必ず「広場」があり、集会やイヴェントが行われ、市がたって来ました。人が何か起これば集まるのも広場、街を揺すぶる事件が起こるのも広場、そして人々のウワサが伝わってゆくのも(ネットや新聞が発達していない時代には)広場。
セヴィリアはアンダルシア州の州都。大西洋の港街カディスまではグアダルキビール川が通じていて、様々な交易が盛んな街。アメリカとの交易も盛んで、その関係上、タバコ工場が設立されます。様々な人種が行き交い、様々な言葉が飛びかう。カルメンの時代にはこのような人種のるつぼにありがちな妖艶なエネルギーを街自体が持って居たのです。このようなイメージがこの街を様々なオペラの舞台に仕立てたのでしょうか?南国の太陽に照らされた白昼の殺人劇もおこりそうなもの、、、
王立タバコ工場
JTのホームページ 面白い!
現在は大学の建物になっている1770年創立のヨーロッパ最大の(!)タバコ工場。
カルメンが作曲された1830年頃には4000人を越える労働者が居たというのも驚き!
セヴィリアの街の一つの名物だったのでしょう。詳しくは上記のリンクをご参照ください。
衛兵の交代〜竜騎兵
このようなタバコ工場の護衛にあたっていたのが、竜騎兵達。
竜は口から火を吐くので火器の総称。騎兵はそのまま騎兵隊。
つまり火器を扱う騎兵隊という意味で、実装の差はあれど、広くヨーロッパで用いられていた軍隊のカテゴリーの一つ。子供達のかっこいいあこがれの的。
その割には、ビゼーの音楽、どこかこの軍隊に対して「おちょくっている」感じがしませんか?
小権力や権威主義に対するアイロニーというか、あてつけというか、、
ちなみに竜騎兵のあだ名はカナリヤ、、セヴィリアの竜騎兵の軍服は黄色でした。
タバコ女工
2012-01-26
タバコの紫煙のなかの幻想的な世界
タバコ女工の合唱
1770年に出来たタバコ工場と言うことは、まさに産業革命の渦の中で出来た工場と言うにふさわしいと思われます。産業革命は雇用関係に決定的な変化をもたらし、カルメンの時代は残念ながら労働者を保護する法律は全くと言って良い程整備されていませんでした。またこの時代は現代の様な戸籍のシステムも確立されて居らず、セヴィリアの様な他民族が行き来する街では、人々の身分を証明することは必要なかったのではないでしょうか?
街の秩序を保つためには身分証の呈示では無く、火器の使用を持って対応され、その為に軍隊が配置されているのでした。それでも増大する市場と需要に供給を続けるために、タバコ工場は人手を集め続けたにちがいありません。
また、労働力としても人間としても身分の保障されない人々にとって、現代で考えられている「幸せな結婚と家庭」という倫理観も伴う感覚は、縁遠い物だったのでしょう。たとえばシューベルトとその取り巻きの殆どが結婚できなかったのは当時オーストリアに置いて、結婚に対する法令が厳しく、「仲人は結婚するカップルが経済的破綻を来せば面倒をみること」などという現在では考えられないような法律さえありました、、、
その様な背景の元、この物語の「タバコ女工」や男達、他のオペラで言えば「ラ・ボエーム」などがあると思います。
一方JTのweb-siteにも有るように、女工達は良質のタバコを生産する上で貴重な労働力でした。男達の「やっつけ仕事」に対してはるかに繊細で美しいタバコが女工達の手により生産されたのです。
セヴィリアの女工達が働くセクションは男性禁制。というのも工場のなかが暑くなったので殆ど裸同然の状態の職場だったからです。男達にとっては「秘密の花園」という所でしょうか?
身分の保障されない男女が、出会いを求めて集まってくる。厳しい労働条件の昼休みの時間。
タバコ女工の合唱は、男にとってはタバコの紫煙の幻想の世界の美しい女性達にまさに「煙に巻かれる」瞬間。ビゼーはフランス音楽らしいうっとりする非常に美しいハーモニーの転調で、聴く側を煙に巻くのです。
この美しい合唱は通常考えられないような転調を伴うため、演奏する私達は音楽にうっとりしたら命取り。煙に巻かれずに現実的な対処が必要で、オーケストラに取っても合唱にとっても難易度が高い曲と言えるでしょう。
言い寄る男達
タバコ女工に言い寄る男達、、。年の頃は10代から30くらいまえ? 日本人から見るとチョイ悪的なキャラクターではないでしょうか?女工達の中には言い寄る男達のガールフレンドも居そうですよね。でも一部は煙に巻かれて「美しいお花畑をあこがれをもって見つめる」という人たちも居るでしょうね。
「まーだこないぞー カルメンシタ!」
アイドル歌手メインイベントの前に、関係者のご挨拶が長くて辟易の末、「カルメン命」って鉢巻きを巻いた追っ掛け達が怒り出すっていう感覚なのかな??(^^") 勝手な妄想その1デス
カルメン
2012-01-26
カルメン
音楽史上随一の個性的なディーバ。
運命のテーマと共に舞台に登場。
「Quand je vous aimerai?」 あたしがいつ 愛するっていうの?
この第一声が魔法の呪文となり、オペラをこのディーバの世界にしてしまいます。
異端のディーバ
とてもエキゾチックで魅力的な主人公は、実は女工達や一般市民から見れば「異端児」なのではないでしょうか?
ジプシーはヨーロッパで普通に暮らしていてもその顔立ちで「ジプシーだ」とわかり、ヨーロッパ人は「異人種」と見なしてるように思います。
話が飛躍しますが、たとえば私が頻繁に「ルーマニアに行く」というと、「そう言えばルーマニアって美人が多いんでしょ?」という会話になることが多いのです。そう。初めての国に行くと美人が多いように感じられます。
それは母国に居るときに比べ「ガイジン」は見慣れない顔立ちなので、「美人」、「美男子」の判断基準がかなり甘くなるからだと思うのです。例えば西洋人から見た東洋人、東洋人から見た西洋人、或いは系統の違う西洋人同士、アジア人同士でも起こりえます。
そうすると良く目にする光景が、明らかに異人種のカップルで「こんな美女がなんでこんな男と・・(内心悔しい?)」という光景。うーーーん
カルメンはカルメンというジプシーが故の異端の美と、個性、オーラを強力に放つが故に男の讃美の的となり、また女工達から有る意味妬みや「仲間はずれ」にされる可能性があるのです(その為に女工達といざかいを起こすのか?)
歌手の個性
一方カルメンという役は歌手の個性がこれほど出る役無いんじゃないかな〜〜?
「夜の女王」とか「スザンナ」、「ロジーナ」、「ジルダ」っていうのは結構固定化されたイメージがあるけれど、「カルメン」ばっかりはどうイメージを作ってもその枠にはまりきらない。というかその枠にはまっちゃったカルメンは面白くない。歌手の数だけカルメンが居る。
その中でも最も強烈なのはやっぱりカラスのカルメン。
ゼフィレッリの「永遠のマリアカラス」は引退したカラスを使いカルメンを映画化しようとしたプロデューサーとマリアカラスのストーリー。ゼッフィレッリ描くの幻想的なカルメンのシーンは見応えがあります。
これは逆に舞台でカルメンを演じたことのなかったカラスの亡霊を追い、亡霊で名演出家ゼッフィレッリが「カルメン」を実現しようとしたのではないか、カラスに対するオマージュではないかと思うのです。ゼッフィレッリの個人的な思いが強すぎて、映画としては良く出来ていないのかも?
永遠のマリアカラス
「カルメン」は歌手、演出家、指揮者に取って一生追い求めてゆく事の出来る、ディーバのキャラクターと思います。オーケストラピットから舞台を眺めていて、うっとりしてしまうディーバのキャラクターは数有れど、カルメンは特別。
練習に何回かご一緒して浪川佳代さんはこの役に真剣に立ち向かい、作ってゆこうとしているのが判ります。指揮者に合わせようなんて思わないで、どうか奔放なカルメンを!(自爆!!)
ハバネラ
2012-01-26
実はスペインの曲では無い?
ハバネラ
「ハバネラはスペインの舞曲ではないキューバの舞曲である!!」これを知ったとたん、私の頭の中では「へえボタン」を20回叩いていた。補足トリビア「”ハバネラ”という名前はキューバの首都”ハバナ”から来ている。」さらに「へえボタン」20回!!!
ちなみに、ハバナの正式名称の呼び名はサンクリストーバル・デ・ラ・アバナ ではあるが
元曲もあり、セバスチャン・イラディエール(Sebastián Iradier(1809~1865)のアレグリート(El Arreglito)という曲名らしい。

楽譜のページへ(IMSLP)
Sebastián Iradier(Wikipedia)
これが1864年に仏訳されて「スペインの花」というタイトルで出版され、元々スペイン語の曲でもあったので、ビゼーはスペインの曲と勘違い?。
ちなみにイラルディエールの曲は当時大ヒット。代表作「パロマ(La Paloma)」は未だにスタンダードのポピュラー曲として歌われています。
オスティーナのリズムと妖艶な三連符

さてさてこの曲,チェロが刻むリズムと半音階の三連符の拮抗が妖艶さを生みます。
大体三連符と二連符の拮抗は緊張感を呼ぶのですが、ギターを思わせる独得のリズムのオスティナートはさらにその拮抗に複雑さとあやしさを加えます。
また多くの歌手達は微妙なルバートやリタルダンドをかけて「こぶし」(装飾音符)と共に妖艶さを強調します。
(ヴォーカルスコア81番三小節目など)このようなリタルダンドのかけ方や小節のかけ方、さらに子音、母音の発音の仕方が歌手の個性と妙技の度合いとして感じ取れます。今回は日本語上演だけど、子音の強調の仕方、母音の鼻のかけ方でぞくぞくっときたりする(男って単純?)。
さらにこの曲の殆どの音量指定がp。「愛しているよ〜〜〜」と大声で叫ばれるよりも、このように小声でささやかれる方が男達の心をくすぐるし、みんな期待をもっちゃうわけ。それにしても改めてスコアを読んでみると、オペラ全体を通じてビゼーのピアノの使い方は絶妙。
もう一つ特徴はグリッサンドが指定されていること。自然に歌手達の選択によって用いられていたグリッサンドは、きっとその様な習慣を持たないコミック座の歌手達の為に指定したにちがいない。
さらに書けばこのオペラ全体を通して、音量記号の指定や細かなニュアンス、ルバートなどの指示もヴェルディのオペラなどに比べて格段に多いのです。
こんな単純な曲なのに永遠の力強さと魅力を持った曲。異文化の強烈なエネルギーを秘めた、カルメンのテーマソングにふさわしい曲。
ホセ
2012-01-26
ホセのキャラクター
あくまでも直球勝負
本名:ドン・ホセ・リッツァラベンゴア。 「ドン」が付くので、元々は良い家柄なのでしょう。
スペインの北部、ナバーラの出身。これは当時アンダルシアの首都であるセビリアから見て、同じイベリア半島にありながら、異国を指すと思ってもよいでしょう。もうこの時代にはフランスの支配下にあったバスク地方(のナバーラ)は独自の文化と言語を持つ異民族の集団。今もなお、バスク民族の問題は100%解決されたと言い難いのです。
wikipedia-ナバラ州
カルメンも異民族ならば、ホセも異民族。スペインから見れば差別されている存在。二人の全くキャラクターが異なるセヴィリアに於ける異分子が出会う。ここにカルメンの私達日本人が気づきにくい隠された主題があると思うのです。
さて、ホセの描かれているキャラクターを一言で言えば「直球勝負」だと思います。
カーブやフォークが使えない。不器用。にぶい。
だからこそ故郷でけんかをして、村に居られなくなって軍隊に入ったのです。お母さんも故郷には居られなくなって、ミカエラを連れてセヴィリア近くの村に引っ越しをしてきました。
悪いやつではないのに、なにかやり方がまずくて「正義のために」けんかをしてしまって相手を傷つけてしまったのでは?
思い込みも激しく見ている視野も狭そう、、。ユニクロの週末セールがオトクになってるなんて全然気づかないで、ショーウィンドウから見た物を10日くらい悩んだ末に平日買うタイプ。判りにくい例え、、?
カルメンが登場のシーンでみんなが大騒ぎしているのに、関心が無いのではなくて、気づかない。
カルメンの性格からすれば自分には当然男がみんな関心を寄せるはず、、なのにである。
そうすれば次に彼女が取る行動は近くまで寄って、無理矢理目を空けさせて自分の存在を認識させる。
「私はここにいるのよ!目に入らないの〜〜?!」という感じで。
ホセとカルメンの勘違いが各々で始まり、全く引き合うはずの無い引力が働き始める。
ミカエラ
2012-01-26
原作には出てこないが、、
ミカエラ
じつは、この歌劇の底本になっている、プロスペール・メリメ作の小説「カルメン」のキャラクターがビゼーのオペラ:「カルメン」にすべて登場するわけではなく、メリメのなかのキャラクターが二人合わさって一人の登場人物になったり、ミカエラの様に創作されたキャラクターも居るのです。
常々、指揮者としてオペラ上演で気を使うのが、オペラ全体を通してのバランスの作り方。良く出来た名作オペラでも、時間や劇進行の緊張感は指揮者の大事な役目なのですが、指揮者がテンポ感覚や構成感をぶち壊しにしてしまうケースは多々あり、もうオペラの途中で見たくなって出てきたこともしばしば、そうしたら翌々日の新聞には酷評が載っている、、っていう話もしばしばウィーンでは体験しました(往々にして、スター歌手のアリアの引き延ばしがこれに拍車をかける)。
とにかく、ビゼーのカルメンは、均衡やバランス感、最後に向けての構築感が良く出来ていて、指揮者としては作りやすいし、今回も抜粋するにあたって、バランス感が崩れすぎないように意識しました。
そのなかで新たに創作されたミカエラ、、脇役(?)ながら光ってます。カルメンとの対称としての存在。長い間ヨーロッパが培ってきた、キリスト教徒の模範のような存在(有る意味邪教のカルメンに対抗する)。このアクセントのおかげで主題としてのカルメンがより引き立つし、なんたって素敵なメロディーを沢山ビゼーは書きました。
ホセとの二重唱。手紙を渡し、ホセに母のメッセージを伝えるミカエラ。「教会の帰り道」という台詞の裏には聖歌が鳴るし、途中でホセの母親の口まねも出て来る(2/4 allegro moderato)。シーンによってビゼーは巧妙に音楽を変える。 四回の「Et puis..そして」その裏で鳴るホルンの半音が迷いを表す、、、。長い間思っているミカエラの思いはためらいがちにホセに、最後には母の手紙で伝えられる。キスのシーンも接吻ではなく、額に、、母からのメッセージとして。そして3/4にはいり、さっきのホルンの動機は半音ではなく、全音になり安堵を伝える。
かわいらしい恋愛の一面。きっと未だホセは小さい頃から自分と一緒に育てられた、みなしごのミカエラの事を恋人ではなく妹のようにしか、未だ意識していないのだろう。
パストラール、牧歌劇。実は裏の意味では「おぼっちゃま、おじょうちゃまの劇」という意味もあるそうだ。
緊張を強いるドラマのあいだにすこしだけ、ミカエラはのどかな時間をもたらしてくれる。
因みに今回の日本IBM管弦楽団のミカエラ役は鵜木絵里さん。私がミカエラをお願いする上で、理想の歌手の一人です。透き通った声と素晴らしい表現の幅を持って居らっしゃいます。
「カルメン」の公演を聞く上でミカエラを楽しみにいらっしゃる方も大勢いると思います。
鵜木さん、賭値なく、素晴らしいです!!
女工達のけんか〜スニーガ
2012-01-26
こわいよ〜〜〜
騒ぎの元はカルメンだが、、
タバコ女工達のけんかほど、怖い物はない。もともと性格が相容れないグループの女性達が、無理矢理狭く暑苦しい工場で働かされている。ちょっとした自慢話が鼻について、頭に来たカルメンの手に持っていたのは、、タバコを加工するためのナイフである、、、こわいよ〜〜。口げんかが一触即発大爆発!
これはやられた側を控えめに演出するものだが、ローザンヌ歌劇場はこの一見グロテスクなけんかを真っ正面から描き出した。頬をカルメンに十字に切られた女性が大げんかする!!
浜松文化振興財団ホームページ
やっぱりこのタバコ工場の治安を保つためには軍隊が居るわけである、、。
小権力をふりかざす。
スニーガ
治安部隊の隊長はホセの上官、スニーガ。上官と行ってもたかだか中尉である。
でもこのスニーガが小さな権力を振りかざせば振りかざすほどホセとの対立が深まる。
ホセはこのどうしようもない小権力者がカルメンに言い寄るに至っては、ぶち切れてしまうのだから。
良く居る小市民タイプかな??
鼻歌のすごさ。
シャンソン
鼻歌と言っても色々有って、このカルメンの口ずさむ鼻歌は、反骨精神と色気に溢れている、、
まったくスニーガの言うことを聞かないカルメンではあるが、スニーガはこの色気に「ころり!」と言ってしまう。
ホセがカルメンをカルメンを逃がさなくてもスニーガが巧く、もっとスマートにカルメンのことを逃がしてやってのではないだろうか?
鼻歌ってすごい、、このメロディーの持つ魅力もすごい!
セギディーリア
2012-01-26
三拍子の魔術
レシタティーボ
実は、カルメンというオペラはビゼーが意図した本当の姿というのは完全には判らない。
1875年ビゼーが初演後にウィーンの上演に際して、初演の時には散文台詞で繋いでいたこのオペラを新たに台詞の部分に作曲し、短縮した「グランド・オペラ」形式に改変する契約を結んだ。
この契約を完全にビゼーは履行することが出来なかったのです。なぜなら6月3日に心臓発作の結果、亡くなってしまうからなのです。
この改変作業は友人のエルネスト・ギローによって引き継がれ、完成された10月23日のウィーン初演はこのオペラに不滅の名声を与える事になります。
残された資料から台詞やあったはずの配役を復元する作業は1964年に始まり、台詞の復元は特に困難を伴っていますが、台詞版や台詞とレシタティーボのあいの子が新版の楽譜の出版とともに今日の主流となっています。もちろん私達が上演するにあたって、ビゼーの意図するところを追い求めるのは絶対に必要な作業なのですが、それがすなわち、初演の台詞を紐解いて学術的に検分するということとは限らない(もちろんその様な事は知っている必要がある)。なぜならば、芸達者なパリ・オペラコミックの役者達は言い回しを自由に変え、より劇的な効果が上がるように舞台の上で練り上げて熟成させていったはずだから(数多くのコミック・オペラやオペレッタの例を見てみれば良く判ります)。
さて、台詞版を復活させた人たちに言わせれば「ギローの改変は冒涜だ」とかいうことになりますが、果たしてそうなのでしょうか?
改めて勉強し直してみればこのギローの作曲した(?)部分は良く出来ていると思うのです。短い台詞で和声や音型にドラマを代弁させる。ビゼーの意図した部分は充分に伝わるとおもうのです。
例えばセギディーリアに先立つレシタティーボ(ヴォーカルスコア121ページ)。これからセギディーリアに繋がる両者のキャラクターが良く表れているのではないでしょうか。
よく考えてみれば、ギローの作曲した部分が不出来であればこれほどの名声をこの形で勝ち取ることもなかったでしょう。
今回の上演はレシタティーボ版、日本語で上演されますが、レシタティーボの駆け引きのドラマもこのオペラの魅力と思うのです。
セギディーリア
三拍子には魔力が宿っています。なぜなら三つの分割はもっとも緊張感の高いリズムだからです。
三という分割、、たとえば弦楽器の弦を三分割してみれば元の音から一オクターブと五度離れた音が出ます。完全五度というのは音程で究極の緊張を持った音程でもあります。
人間は何処か二拍子に安定と均整を感じますが、三拍子になるとその緊張感に惑わされ、踊らされるのです。
ワルツの魔力もしかり、このオペラのスペイン舞曲は三拍子を礎にしています。

さてこのセギディーリア、三拍子なだけではなく1拍目と2拍目の間に十六分音符の「おかず」が入っています。この曲、ピアノで弾いても様にならない。ギターを片手に指で引っかけるのが雰囲気として一番似合っています。こうやって考えるとスペインの曲はギターの曲が多くて、このオペラの四幕の前奏曲だってどう考えたってギターのかき鳴らしだし、、リムスキーコルサコフのスペイン狂詩曲なんか、ギターの音型をどうやってオーケストラに置き換えるか腐心している様にも見えます。
ビゼーがギターの音型をオーケストラで再現するのには一つだけマジックがあって、今まで休んでいたハープが控えめに加わるのです。同属の撥弦楽器が聞く物の耳にギターを聞かせるのです。
ハバネラ同様、ppが基本になるこの曲、実はアクセントがついたり、微妙に揺れたりホセの心情を細かく揺り動かします。伝統的な演奏では、"J'emmenerai mon amoreux"(恋人を連れて行くの)の歌詞のところでルバートをかけ、色っぽさを強調します(フランス語の響きがセクシー)
まるでホセにしなやかな猫がすりよってゆくようにさえ聞こえます。
突然四拍子のフォルテでホセという単純な犬が吠え立てます。手練れの猫は相手のペースに一旦巻き込まれたふりをして、かわし、6小節後には三拍子にもどるのです。
こんどは自分から四拍子に飛び込み誘惑する(しかし伴奏形には三連符が含まれている)-ヴォーカルスコア129ページ-
さらに凄いのは三拍子の舞曲のリズムがわざわざ落とされて(メトロノーム160から132に落ちる)さらにしっとりホセに絡みついて行くのです。-130ページ-
こうなってはホセはたまらず、先ほどのカルメンのメロディーを模倣して降参します。
しかも「愛してくれるか?」「約束だ」と単刀直入に白か黒かの恋愛を求めるホセを鼻先で交わし、はぐらかすカルメン。
ついに勝利を確信したカルメンがフォルテで歌い始めます。
決して交わることのない関係
セギディーリアのこの表面的な恋愛の駆け引き、これは実はこの歌劇の主要なテーマを示しています。お互い、決して相容れない恋愛観がこの短い舞曲の中に暗示されていて、それが終幕の結末を予言しているのです。お互い自分に無い価値観を持って居るが故に(異国であった出身国が異なるガイジン同士)引かれあい、カルメンはそれが表面的な物と早く気付き(恋愛の手練れで有るが故に)、最後ホセはカルメンが死んでも気づかないのでしょう。
ジプシーの唄
2012-01-26
呪術と音楽の関係
騒ぎの元はカルメンだが、、
さて、リズムのパターンの繰り返しというのは人間に陶酔をもたらします。音楽の世界でこの代表作はラヴェルのボレロ。同じパターンの繰り返しが13分も続くと人間は時間の感覚が麻痺して自然に高揚してゆくのです。呪術のたぐいに単純な打楽器が用いられるのも同じ理由から。
このジプシーの唄は最初テンポが110、最初のサビで116、二回目のサビで126、三回目のサビで138、最後のコーダで152とテンポが上がってゆくようにスコアにはメトロノームが指定されています。
手元にメトロノームを置いて調べてみると判るのですがこの早くなりかたはものすごくて、繰り返しの効果も相まって4分半の曲でものすごい昂奮を作り出します。
歌詞はどうでも良い歌詞、要は言葉が舞曲に乗ればよい。
実は最初110でテンポを始めると曲の躍動感が余りにも出なくて様にならないので、大抵の演奏は120位で始めています。
今回の上演ではちょっとした驚きの仕掛けがあって、仕掛けチームは必死に猛特訓の最中だそうな。
明日も朝から張り切って練習する、、と私の所に情報が入ってきています。
エスカミーリョ
2012-01-26
イケメン闘牛士
闘牛士の唄
イケメン闘牛士の登場。また登場の音楽がいいよね〜〜。男っぽい。
wikipedia 闘牛士
闘牛士の説明はwikipediaに譲るとして、まずは音楽の話。
このオペラは主役のカルメンがメゾソプラノ、こんなカッコイイ役がバリトンと言うところにも特色があり、実は聴き手(特に女性)をほれぼれさせるバリトンの数少ないレパートリーになっています。
19世紀半ばを過ぎるとヒーロー役は大抵テノール役と相場が決まっています。このオペラではテノール(ホセ)の表現の幅という意味ではものすごく広範囲で難しいのですが、ヒーローに見えるのはなんと言ってもこのバリトンのエスカミーリョ。
リズム的には騎馬のリズムのイメージがあり、4拍目と1拍目が特に重い。
エスカミーリョのキャラクター的にはアイドル。自分がカッコイイと判っていて、どの様に振る舞えば女性が騒いでくれるかも判っている。キムタクキャラ? 男の目から見ればかなりくやしい。特に私みたいな人間から見ればかなりくやしい。恋愛も手慣れた物。次から次へ。有る意味カルメンと同属なのかも知れません。
アイドルと言えばブロマイドのようなアイドル・有名人のポートレイトカードを手に入れるっていうのが流行りだしたのが、この時期。たとえばシューベルトの最晩年の肖像画はこの目的で書かれた物。
特に1839年銀板写真が発明されるとその肖像写真ブームに火が付く。
闘牛士だってアイドル。今日はどんな衣装を着ていたかが、女性の間で話題になり、髪の毛を一本手に入れた、肖像写真手に入れたってことを自慢し合う。そんなアイドルの楽しみ方が生まれた時期。エスカミーリョには常に追っかけの集団がいたっておかしくない。現代だったら三幕でパパラッチが密輸団のアジトまでつけてきたことだろう。
リーリャス・パスティア
2012-01-26
名脇役
リーリャス・パスティア
ところでこのオペラの台詞版にはちゃんと役柄として登場する、リーリャス・パスティア。セヴィリアの酒場の主である。超脇役なので忘れがちなのだが、台詞の中のキーとして登場する。
昔は何処の街だって味のある酒場って言うのがあって、名物のおやぢが主としていたものだ。
ところが今は居酒屋へ行くと「いらっしゃいませ〜〜♪」「お客様何名様でしょうか〜〜?」「おタバコはお吸いになられますか〜〜」「お客様3名様ご来店で〜〜〜す♪」という愛想の良いお嬢さんが迎えてくれる。さらに席にはピンポンボタンがあり、おしぼりを持って来てくれ、「当店の本日のオススメは刺身の盛り合わせ(盛り合わせというところが実はヤバイ)になっております」などと愛想を振りまいてくれる。清潔な店内にはどこか陽気に溢れている。
食事はそこそこにうまい。
これは居酒屋とは呼ばない。
本物の居酒屋とはのれんをくぐると、薄暗い店内には何人かの客がカウンターで肘を突きながら斜めに座っていて、その奥に眼光の鋭いおやぢがこちらをちらっと見て「いらっしゃ〜〜い(低め)」とやる。
おそるおそる席に着くとおやぢがやってくる「なんにいたしやしょ?」「オススメはありますか?」「ウチは何でもおすすめだよ(決まり文句)」が帰ってくる。
怪しい店内には妖気ががこもり、ダークサイドに落ちたようだ。
運ばれてきたおつまみは常備菜のようだ、、一口食べる「うまい!!」
これを居酒屋と呼ぶ。
ヨーロッパだって昔はこんな店が多かった。でもどんどん駆逐されいっている。
そういえばウィーンだって昔の名店がどんどん潰れていって、生き残っている場所はどんどんファミレスみたいなサービスになっている。
昔よく行ったレストラン、11:55になると空のテーブルに飲み物が二つ運ばれ12時きっかりに老夫婦が席に着き、オーダーをしないのに食事が運ばれ、夫婦は食事を済ませ、かえってゆく。
この店も今はもう無い。今年1月8日に亡くなったオーストリアの名指揮者の行きつけの店だったのに。
でも物語には居酒屋のおやぢが必要。IBM版「カルメン」ではこのおやぢにひと肌脱いで貰おうとおもっています。
デュエット
2012-01-26
感情のせめぎ合い
影の主役?
「カルメン」の中にはデュエットとタイトルの付いたタイトルが非常に多い。相異なる二人を対峙させて、物語を回して行く。
また、舞台上には最初姿を現さず、舞台上の登場人物に舞台裏から音楽で影響を与えるという手法も沢山見られます。
この二幕デュエットでは最初はホセが舞台裏から鼻歌を歌いながら登場。
オケ用語では「バンダ」といわれるオーケストラ本隊から離れ舞台裏から演奏するのトランペットが、軍隊ラッパとして兵舎への帰営を促します。これがカルメンの唄と踊りにシンクロして行くという、見事な手法で描かれ、アイディアの勝利とも言えるでしょう。
「バンダ」いろいろ苦労も多いのです。舞台上と舞台裏、聞こえ方も違うと当然時差も出て来る。音程の聞こえ方も舞台の構造によっては色々。遠近感を出すために色々な方向に向かって吹かされる、、etc.
このバンダは舞台オペラでは兵士の衣装を着て、お客様の目に付くところを通過しますが、今回のIBMカルメンでは実はちょっとバンダに苦労して貰って、音の遠近感でその表現をしています。
この手法とは、、、、それではコマーシャルのあとで??
感情のせめぎ合い
それにしてもこの二重唱は感情の起伏とせめぎ合いという意味ですばらしい!音楽の中に使われている音楽的な動機と、オーケストレーション、そしてソリストとの掛け合い。
カルメンとホセの違う意味の対峙が二幕と四幕でそれぞれバランスを取るように描かれている。
自分ペースでホセを持てなしてきた、カルメン。それが相手がすぐ帰ってしまうことを聴き、すぐさま本当の恋と勘違いしたこと(やはり本当の恋など無かったこと)に気づくのです。いくら「花の歌」ホセがカルメンの感情を呼び戻そうとしても、一旦離れてしまった心は戻らない。ますます自己陶酔してカルメンにのめり込んで行き、身勝手な恋をもとめるホセ。この乖離の瞬間が見事に音楽で表現されます。
心のちょっとした変化がピアノでクラリネット低音と弦のピッチカートで表される。この経った一音で♯三つ分の転調をし(bb→♯)、感情の大爆発を引き起こす。凄い。その先のカルメンの激しさを表す転調音型。傑作だ!
間奏曲
2012-01-26
オーケストラ曲としても
間奏曲
間奏曲というと、本来の目的は舞台転換の時間を稼ぐ、場つなぎの音楽。長い間聴衆には振り向かれず、きっと会場も昔はざわざわしていたにちがいない。
でもこのカルメンの三つの間奏曲はすべて傑作揃い。しばしばコンサートにも取り上げられます。三つがそれぞれの素晴らしい個性を持って居て飽きることないのです。特にこの間奏曲はアクティブな他の二曲比べしっとりとした、フルートとハープの美しいデュエットが心を捕らえます。
有る意味、今回の聞き所と言っていいかもしれません。
メロディーメーカーとして、オーケストラ音楽書きとしてのビゼーの卓越した手法の判る三曲です。
密輸団とは
2012-01-26
英領ジブラルタルって?
密輸団の行進
密輸団、日本の様に周りを海に囲まれている国だと余り密輸団というのは実感を伴いません。
ビゼーの時代のヨーロッパは特に国の間の領土の仕切りが沢山あり、それだけ税関の数も多く、その区間で関税もたんまり取られていたわけです。
大天才、モーツァルトは小さい頃から天才として王侯貴族からもてはやされ、マリア・テレジアからは立派な子供用の服(おさがり?)を贈られます。これは当時王家しか着ることが許されなかった物。アマデウス・モーツァルトの子供の頃の肖像画として、写真で目にされた方も多いのでは?
実はこの服、国境で「フリーパス」の役割をしたらしいのです。
写真家、木下晃さんの説によれば、モーツアルトの父、レオポルドは子供を王侯貴族に仕立て、国境ー税関をなんなく通過し、子供の教育と就職活動の為の旅行費用を捻出するために密輸をしていたのでは?
とのこと。充分あり得る話ではあります。
ECが統合になり、国境検査が省略され、朝トリエステの港で上がった魚がトラックで運ばれ、昼ウィーンで供される様になるとはこの時代、誰が想像したでしょうか?
ジブラルタル
ビゼーの「カルメン」を理解するにはいくつかのキーワードがありますが、イベリア半島の特殊な領土事情があります。
もともと貴族が仕える国によってヨーロッパの中には数多くの領土の「飛び地」があります。
ひどい例では一つのバールレ・ナッサウという村の中にオランダとベルギーが混在しているのです(この村のまわりはオランダ領)。
バールレ・ナッサウに関する記述
これほど極端な例ではありませんが、イベリア半島の南東端にはイギリス領のジブラルタルがあります。1713年のユトレヒト条約で英領として認められた物で、地中海、大西洋をにらむ良港であることからイギリス海軍の重要な拠点となってきました。
Wikipedia ジブラルタル
つまり、ジブラルタルはイベリア半島にありながら英国の法律とポンドが流通し、スペインに対峙していたことになります。また、この二つの地域には交易があり、産業革命を一躍早く成し遂げたイギリスから到着する船が、頻繁にジブラルタルの港に入り重要な貿易拠点であったこともうかがい知ることができます。当然為替差益と関税が発生するのです。
このジブラルタルは「ザ・ロック」とよばれる岩山がそびえ立っていて、税関吏の目を欺くにはこの切り立った岩山を越えて行くのが常套手段だったのでしょうか?
さて今回、不肖曽我大介、「密輸団の行進曲」のスコアを読んでいて、ふと遠くで聞こえる波のざわめきや切り立った岩山の危険な様子がその音楽の中に表されているのに初めて気がついたのでした。
IBM版「カルメン」では「カルメン組曲第二番」のなかからオーケストラ曲として演奏されます。
ミカエラのアリア
2012-01-26
夜のアリア
ミカエラのアリア
今回は関係無いですが、オペラで夜の演出するのは難しいと思うのです。第一、見ている方が眠くなる。同じセヴィリアを舞台にした、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」は本当に夜のシーンが多い。
何回見ながら寝たことか。光を多用できない場面は本当に効果を出すのが難しく、このカルメンの三幕でも何をやっているんだか判らない演出も多い。
それを補うには、、、、やはり音楽なのでしょう。
「カルメン」のミカエラのアリアはこのオペラ唯一の「アリア」と銘打った曲。
しかも未完のオペラ「グリゼリーディス」から転用されたらしい(まあ未完だから、、)。
でもこのアリアは未完のオペラでお蔵入りされないで本当に良かった。「カルメン」と共に世界中のソプラノの愛唱歌になったし。
ホルンの四重奏から始まり、暗い舞台の上をチェロのアルペッジョとともに瞬く間にファンタジーの世界にひきこむ。そこにミカエラの清純な声が溶け込んで行く。魅惑のひととき。
特に素晴らしいソプラノに出会ったときには至福のひとときになる。
今回の鵜木さんもきっと至福のひとときをもたらしてくれるはず。
筆者は極上の音楽を聴いている時はうっとりと眠くなり、アブナイ演奏を聴いている時は目がさめてくる。
そっか、、いずれにせよ至福の音楽がもたらす先は、やっぱり睡眠???
ホセとエスカミーリョ
2012-01-26
恋愛観の違い
ホセとエスカミーリョの二重唱
見張りの番をしていたホセは暗闇に現れた人影を間違えて撃ってしまう(大体真夜中の切り立った岩山に人がごろごろやってくるのも不自然なものだ)。そこで始まる友人の会話から、お互いに恋敵とわかり、けんかに至までの音楽に描かれたプロセスは素晴らしい。
まったくもって二人の恋愛観はちがう。
自分の立場を貶めることになったのも運命、それでもカルメンとの恋愛は運命のもたらした一生ものと突っ走る恋愛初心者ホセ。それに対して恋愛はお手の物、今までも数多くの女を泣かせてきたプレイボーイ・エスカミーリョ。これが一生に一度の恋であるわけがない。
まずは、エスカミーリョがウキウキしながら自分の有名な女との(現代で言えばアイドルタレントか?)との恋愛を語り出す。
その口調は「ジプシー女だ」という場面にいささかの嘲笑が入り、「カルメン」と言う名を明かしてびっくりするホセには「そのとうりでございます旦那様 oui,mon cher」といったふざけた口調で切り返す。大体自分の彼女の自慢をだらだらする男は殴ってやりたくなるのが心情という物。
さらに「女性自身」で読んだような「兵隊が彼女の為に脱走兵になった」っていうネタを本人の目の前で披露。そりゃホセも怒りますわ!そのあとは半音階でたっぷり皮肉を込めて「それってあんただったの?」
さあ!けんか「彼女を賭けて決闘だ!」あくまでも必死のホセ。それに対しかるーーい気持ちで「いいぜ!受けてあげるよ〜〜」あくまでもかる〜〜いエスカミーリョ。
でもナイフを抜かれるとさすがに真面目になってくる。
因みにホセはナヴァラ流の構えで攻撃する。これは「敵の正面にまっすぐ立ち、左の腕をあげて左足を前に踏み出しナイフは右の太ももぴたりとつける」姿勢。
対するエスカミーリョはアンダルシアの構え。これは「鼠に飛びかかる寸前の猫のような具合に、腰を落として身体を二つに折り曲げる。左手に帽子を握っているのは攻撃をかわすためで、ナイフは前方に突き出す」といったもの。
最初からけんかにはならない。なぜなら圧倒的にエスカミーリョの身のこなしが軽く、次々と攻撃をかわしてしまう。
しかし、油断がホセの攻撃を招く。ホセがとどめの一撃を刺そうとした瞬間、止めに入るのはカルメン。目の前で血を流させたくない、といったカルメンのキャラクターを垣間見る瞬間である。
祭りの日
2012-01-26
祭りの日
四幕の熱気へ
世界中どこでも祭りというのは特別だ。小さい頃私の住んでいた近くには山一つ分、天神さまが祭られていて、祭りの時には駅前からずっと参道にそって屋台が並ぶ、子供心にウキウキしたモノだ。心残りなのは山の上にあった見世物小屋に一度も入ることが出来なかったこと。呼び込みのあんちゃんが言っていた、本当にろくろっ首は居たのだろうか?<脱線中>
さて世界どこに行っても特別なイベントのある、祭りの日の賑わいや街の熱気は共通した物があり、街自体の気温が五度近くも上昇したような、錯覚に陥る。晴れ着を着た人々(日本で言えば法被か?)、嬉しくて走り回る子供達、飾り付けの鮮やかな色。共通項はいくらでも有る。
動物をテーマにしたお祭りも結構ヨーロッパにあって、牛追い祭りや競馬、騎馬パレードなんて言うのもあります。私が体験した中で印象深かったのは、イタリア・シエナのパリオ。17の独立地域が紛争を解決するために競馬で競い合う、1147年からの祭りです。街をそれぞれの地域の旗を持った人々が練り歩き、裸馬に乗った騎手が広場を三周することで競いあう、お祭りです(号令はなんと大砲)。面白いのは落馬しても馬がゴールすれば勝ちであること<またまた脱線>
ところで・・・
ヨーロッパの地中海を中心として栄えていった、ギリシャ文明。各地に今でもギリシャ劇場が残っていて、これは純然とした街全体の儀式や劇を行う物。この時代には音楽を行う、オデオンや運動競技を行うスタディオンも建設されました。ところがほぼ同じ地域に時代を後にして浸透していったローマ文化では、ギリシャ時代には重要視されなかった、見世物を見せる目的の(円形)闘技場が劇場のすぐ横に建設されることになります。
この見世物の為の闘技場で行われ、最も人々の関心を集めたのは、人と人との殺し合いや猛獣と人の対決といったもの。サーカスなども行われていた物の、人間のサディスティックな欲望を満たす出し物はこの時代エスカレートしてゆきました。
今の時代に生き残っている闘牛は有る意味、古のこのような文化に根ざした物。
現在では余りにも残酷な故、テレビ中継は無くなり、若干衰退気味ではあります。
「カルメン」はタバコ讃美の唄といい、闘牛といい、現代で作ろうとおもったら不可能なネタだらけなのかもしれませんね。
以下の二つのweb-siteはカルメンを演奏するに際し、目を通していただいた方が良いかも知れません。
スペイン観光局のページ
闘牛という見世物
死で完結する愛
2012-01-26
様々な愛の形
対比される世界
熱狂する群衆。そして運命の結末へと向かってゆく一組のカップル。
あらゆる意味でこの二つの正と負のエネルギーの対比がこの物語のクライマックスであるし、「ハバネラ」や「トレアドール」だってこの物語の単なる前座に過ぎません。
命を賭して戦う闘牛士と牛、命を賭して激しい争いをする二人のカップル。そして二つの命が形こそ変え、消えてゆく結末。
闘牛場では今まで、聞き慣れている闘牛士の行進曲が順を追って転調して行きその緊張感を高めてゆく。このテーマの調性を追って行くと、、
前奏曲ではこの行進曲の調性はイ長調(行進曲)とヘ長調(中間部)
二幕のエスカミーリョ登場の場面でもヘ長調(中間部)
エスカミーリョの退場は半音下がってイ長調(オーケストラは若干明るく響く)
三幕のホセとエスカミーリョのけんかの後では変ニ長調
自分のカルメンへの勝利を確信して舞台裏で歌うエスカミーリョの唄は本来のヘ長調
(少しだけヴェルディの「リゴレット」に似ている?)
ところがこのフィナーレでは
まず、イ長調で行進曲が演奏され、中間部は高鳴る観客のテンションを表して初めて転調せず、イ長調のまま演奏されます。
舞台に裏に消えた観客の群衆は少しテンションが下がりまずはト長調、
続いて本来のニ長調
最後にはこのオペラで一度も採用されることの無かったシャープが6つの嬰ヘ長調に転調して最後終える!!!!!!
大体世の中に嬰ヘ長調の曲がどれくらいあるのだろう?かなり特殊な調です、、、。
古典派で思い浮かぶのはハイドンの弦楽四重奏曲のラルゴ楽章、ベートーヴェンのソナタ第24番、さらに時代を追い、ショパンの即興曲やマーラーの交響曲第十番などもある、、。
この調がどこか悲しく響くのは、きっと弦楽器が一つも開放弦を使う事が出来ないことも関係しているのでしょう。
もう二度と交わることの無い関係
さて対峙するホセとカルメンのテーマは錯乱してゆくホセ、そして自由を貫くカルメンというテーマに絞られていますが、その音楽の崩壊してゆく過程は見事です。
最初は一般的なオペラの二重唱っぽくはじまるこの二重唱の最初のドラマは心臓の鼓動の様に聞こえる、ティンパニと低弦のピッチカートのAb音、、そして「俺がきらいか?」という間にppからffまでの大胆な音量の変化を含んだオーケストラに挟まれた二回のホセの必死の最後の問いかけ。
「俺と来るのだ」「カルメン、未だ間にあう」「なんでもする」「捨てないでくれ」もう言っていることに脈絡がない。もうだだっ子の世界!
それに対するカルメンの自由宣言!「カルメンは生きるも死ぬも自分の勝手にするのよ!」カッコイイ!
この先錯乱するホセには半音階が用いられている。これは本来なら嵐のシーンで用いられる手法。これが実に二人の緊迫するシーンを台詞のように唄が繋ぎ、盛り上げてゆく。
ホセは最後にカルメンを悪魔呼ばわりし、カルメンがホセのプレゼントの指輪を捨てる。
このシーンにもはや音楽は関係無い。二人の対峙する人間の緊迫関係である。
究極の緊張関係。この間をどう表現するか。それにこのオペラの全てがかかっている。
愛と死
死で完結する愛というテーマは古今東西様々な形で描かれてきました。
愛というのは究極の正のロマンティシズムであり、死というのも究極の負のロマンティシズム。
但し、死というのは誰にでも訪れるが、訪れたときには全てが終わってしまう。
だからこそ、死というテーマは永遠のロマンティシズムのテーマなのでしょう。
現代では余りにも軽く死が描かれすぎていますが、、、
この場合は運命めぐる二人の生命が、一瞬の共振をへて二人をボロボロと崩れてゆく。
いわば愛というのはこの二人にとっては一瞬しかなく、一方的なホセの強い要求を満たすための物に変わってゆきます。お互いの立場は理解できない、価値観が余りにも違いすぎる。カルメンは兵舎に帰ろうとするホセを見た瞬間からそれに気付き、ホセは最後まで気づかないどころか、自分が一番大切にしているはずの物をその場で壊してしまう(きっとホセの感覚としては「殺した」のではなく「壊した」)、、。
身勝手な愛なのか?それとも言うことを聞かないペットを力でねじ伏せただけなのか?
死によってのみ成就される愛の物語は数多く人間のファンタジーとして描かれていますが、カルメンは死による破壊と破滅の象徴であると言えるのでは無いでしょうか。
現代のニュースなどで報じられる事件を聞くとき、背筋が凍りそうになるとともに、いつの時代も変わらない人間のエゴについて考えさせられるのは私だけでしょうか?




ブラスジャンボリー2...